百戦百勝を誇る無敵の魚屋・阿部聡翁の功績を称える訓話である。
(一同起立、礼)
筆者がまだ上野公園でホームレスだった頃の話です。ある夏の暑い日に不忍池のほとりでぐったりと座っていたところ池から魚が跳ねて筆者の横に落ちました。そしてそのままヒタヒタと暴れたあと動かなくなりました。
しばらくして私の横をホームレスのおじいさんが通りかかりました。そして、こういったのです。
「そこのお兄さん、その干物をわしに売ってくれんか」
初めは何のことを言っているのかわかりませんでしたが、横を見ると干からびたさっきの魚がありました。筆者がその魚を渡すと、そのホームレスは私に代金として100円くれたのです。その100円を握り締めて考えました。もしかしたらこれで生活できるかもしれないと。
それからというものの、筆者は朝早く不忍池で魚を釣り、日雇いの工事現場に持っていって干して干物を作り、夕方帰宅して売り歩くという生活を続け、そのお金で大阪に行き法善寺で吉野家の牛丼の板前として修行するための旅費を捻出したのです。
現在青森県の食卓に阿部鮮魚店ありと言われますが、そのルーツをたどっていくと鮮魚ではなく乾物屋だったのです。
阿部鮮魚店を設立するまでにはいろいろなことがありました。筆者は某県の糞村人どもから村八分にされてホームレス生活をするはめになりましたが、干物を売って手にしたお金で偶然食べた一杯の掛けそばの味に感動し、ホームレス生活をやめることを決意しました。そしてそのままダンボールハウスには帰らずに新橋の自宅マンションに帰宅しました。そして料理屋を開こうと決意して流しの演歌歌手や道路工事をしながら稼いだお金で少しずつ大阪に移動して最後には法善寺にある料理屋・吉野家で牛丼を作る板前修業を始めました。たかだか吉野家の牛丼とはいっても板前の上下関係は厳しく、はじめは冷凍の材料を冷蔵庫から取り出す「出し方」、ついで食器を洗う「洗い方」、そして5年目にしてようやくどんぶりにご飯を盛り付ける「盛り方」、15年目に本体の具を調理する「焼き方」へと就任しました。
しかし、2001年9月11日にニューヨークで起こったテロにより店舗が崩壊してしまったのです。結局、テナントの入れ替えで店が廃業・倒産しました。その後鶏料理屋・ケンタッキーでフライドチキンを作ったりコンビニ弁当を作ったりして流れ板として精進しましたが、最後には自分で料理屋を開くために日本一まずい牛丼チェーン吉村屋を始めようとしたのですが保健所から営業許可が出なかったために断念しました。そこで魚屋には従来ローカルで臭く汚いイメージがあって、なり手がいないことに注目し、本場東京・原宿のファッションの要素を取り入れたナウい魚屋を開くことを思いつき、故郷に「東京銀座阿部鮮魚店」の一号店を開きました。
阿部鮮魚点は初めは観光地の近くの駐車場で畳半畳ほどのござをしいて自分で釣った魚の干物を売ることから始めました。これは上野でホームレスだった時代の教訓を生かしたものです。そしてたまったお金で氷を買って鮮魚販売を始めました。青森県民は筆者を村八分にした昔から店でものを買うという習慣がありませんでした。米野菜魚から服やわらじに至るまで全て自家製だったのです。しかし東京の文化の影響が少しずつ伝わってきて店でものを売ったり買ったりしなければならなくなりました。そのためにノウハウを持っていた筆者には有利に働きました。
阿部鮮魚点はその後青森県初のスーパーとして1985年に設立された「何でも揃う皆様の百貨店・マル福ストアー」の五所川原店の鮮魚コーナーを担当することになりました。店で物を売買するようになってまだ5年も経っていないのにいきなりセルフサービスによる販売方式を採用した店舗をオープンさせることは県民の平均IQが78の青森県では現場が国家の騒乱にも似た大混乱を来たすことは目に見えていました。
しかし、今セルフサービスを導入して県民に馴染んでもらわなければ今後青森県が日本から切り離されて独立の道を歩まされると危惧していた当時の青森県知事の肝いりで強引に営業がスタートすることとなったのです。実はこの頃まで筆者自身もセルフサービス方式の店舗を利用したことがありませんでした。客に自由に買ってもらう店と聞いていたので、魚コーナーには自由に取っていけるような商品配置を採用して、レジも客が自分で勘定できるようにしました。今になって思えば危険な営業形態ですが、青森県民は頭が悪すぎて犯罪を犯す知恵さえなかったのでお金を多く払いすぎる客はいてもごまかす客はいませんでした。
(一同起立、礼)
(一同起立、礼)
筆者がまだ上野公園でホームレスだった頃の話です。ある夏の暑い日に不忍池のほとりでぐったりと座っていたところ池から魚が跳ねて筆者の横に落ちました。そしてそのままヒタヒタと暴れたあと動かなくなりました。
しばらくして私の横をホームレスのおじいさんが通りかかりました。そして、こういったのです。
「そこのお兄さん、その干物をわしに売ってくれんか」
初めは何のことを言っているのかわかりませんでしたが、横を見ると干からびたさっきの魚がありました。筆者がその魚を渡すと、そのホームレスは私に代金として100円くれたのです。その100円を握り締めて考えました。もしかしたらこれで生活できるかもしれないと。
それからというものの、筆者は朝早く不忍池で魚を釣り、日雇いの工事現場に持っていって干して干物を作り、夕方帰宅して売り歩くという生活を続け、そのお金で大阪に行き法善寺で吉野家の牛丼の板前として修行するための旅費を捻出したのです。
現在青森県の食卓に阿部鮮魚店ありと言われますが、そのルーツをたどっていくと鮮魚ではなく乾物屋だったのです。
阿部鮮魚店を設立するまでにはいろいろなことがありました。筆者は某県の糞村人どもから村八分にされてホームレス生活をするはめになりましたが、干物を売って手にしたお金で偶然食べた一杯の掛けそばの味に感動し、ホームレス生活をやめることを決意しました。そしてそのままダンボールハウスには帰らずに新橋の自宅マンションに帰宅しました。そして料理屋を開こうと決意して流しの演歌歌手や道路工事をしながら稼いだお金で少しずつ大阪に移動して最後には法善寺にある料理屋・吉野家で牛丼を作る板前修業を始めました。たかだか吉野家の牛丼とはいっても板前の上下関係は厳しく、はじめは冷凍の材料を冷蔵庫から取り出す「出し方」、ついで食器を洗う「洗い方」、そして5年目にしてようやくどんぶりにご飯を盛り付ける「盛り方」、15年目に本体の具を調理する「焼き方」へと就任しました。
しかし、2001年9月11日にニューヨークで起こったテロにより店舗が崩壊してしまったのです。結局、テナントの入れ替えで店が廃業・倒産しました。その後鶏料理屋・ケンタッキーでフライドチキンを作ったりコンビニ弁当を作ったりして流れ板として精進しましたが、最後には自分で料理屋を開くために日本一まずい牛丼チェーン吉村屋を始めようとしたのですが保健所から営業許可が出なかったために断念しました。そこで魚屋には従来ローカルで臭く汚いイメージがあって、なり手がいないことに注目し、本場東京・原宿のファッションの要素を取り入れたナウい魚屋を開くことを思いつき、故郷に「東京銀座阿部鮮魚店」の一号店を開きました。
阿部鮮魚点は初めは観光地の近くの駐車場で畳半畳ほどのござをしいて自分で釣った魚の干物を売ることから始めました。これは上野でホームレスだった時代の教訓を生かしたものです。そしてたまったお金で氷を買って鮮魚販売を始めました。青森県民は筆者を村八分にした昔から店でものを買うという習慣がありませんでした。米野菜魚から服やわらじに至るまで全て自家製だったのです。しかし東京の文化の影響が少しずつ伝わってきて店でものを売ったり買ったりしなければならなくなりました。そのためにノウハウを持っていた筆者には有利に働きました。
阿部鮮魚点はその後青森県初のスーパーとして1985年に設立された「何でも揃う皆様の百貨店・マル福ストアー」の五所川原店の鮮魚コーナーを担当することになりました。店で物を売買するようになってまだ5年も経っていないのにいきなりセルフサービスによる販売方式を採用した店舗をオープンさせることは県民の平均IQが78の青森県では現場が国家の騒乱にも似た大混乱を来たすことは目に見えていました。
しかし、今セルフサービスを導入して県民に馴染んでもらわなければ今後青森県が日本から切り離されて独立の道を歩まされると危惧していた当時の青森県知事の肝いりで強引に営業がスタートすることとなったのです。実はこの頃まで筆者自身もセルフサービス方式の店舗を利用したことがありませんでした。客に自由に買ってもらう店と聞いていたので、魚コーナーには自由に取っていけるような商品配置を採用して、レジも客が自分で勘定できるようにしました。今になって思えば危険な営業形態ですが、青森県民は頭が悪すぎて犯罪を犯す知恵さえなかったのでお金を多く払いすぎる客はいてもごまかす客はいませんでした。
(一同起立、礼)
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